ウンベルト・エーコによる小説『バウドリーノ』(堤康徳訳、岩波書店、2017)をご紹介いたします。原著"BAUDOLINO"は2000年刊。
作者ウンベルト・エーコはイタリアの小説家、エッセイスト、文芸評論家、哲学者、記号学者とのこと。多い。『薔薇の名前』が有名ですね。
私なんかは薔薇の名前……なんか……難しそう……と敬遠してたんですが、『バウドリーノ』にサテュロスが出てくると聞いて手を出してみました。
ときは12世紀、コンスタンティノープルで十字軍によって今まさに殺されんとしていたニケタス・コニアテスは颯爽と現れたひとりの男に助けられる。その男の正体は神聖ローマ帝国皇帝フリードリヒ1世の養子バウドリーノ。亡命中にニケタスはそのバウドリーノの数奇な人生の聞き手となるのでありました。
この主人公バウドリーノは「みんなが信じたいことを即座に言うことができる」という特技(?)があり、それによって「真実しか語らない」と「大ボラ吹き」のふたつの性質を持っていることになります。
なので物語はどこから嘘でどこから本当なのやら。バウドリーノは中世ヨーロッパのあんな事件やこんな事件に関わっては機転を利かせて「歴史」を作っていきます。
……ので、特に上巻は現実の中世ヨーロッパの主要な事件を抑えておかないとけっこうポカーンと読んでしまいます。小気味良いテンポで、人間が語る真実とは?人間が信じるものとは?歴史とは?について想いを馳せることができるすごい小説なのですが、いかんせん……知識が……
逆に知識があったら本当にめちゃくちゃおもしろいんだろうな、と思われます。(薔薇の名前のウィキペディアが言うには薔薇の名前もどうやらそういう感じらしい)
さて、後半バウドリーノと愉快な仲間たちはなりゆきで本格的に司祭ヨハネの王国(これも12世紀に実際に流布した伝説、「プレスター・ジョン」で検索をば)を目指すことになり、その途上で司祭ヨハネの王国の属州であるらしい土地「プンダペッツィム」に辿り着きます。
そこはいわゆる、「昔のヨーロッパの人たちが想像した東方の怪物たち」の園。一本足のスキアポデスや胴体に顔があるブレミエスや耳がでかいパノッティなどなどが普通にそこらを歩き回り、真面目にキリスト教神学論争をしていました。
そして彼らさまざまな種族のうちに〈けっして姿を見せないサテュロス〉もいるとのことが語られます。や、やっと出てきた…(信じて600ページくらいポカーンと読み進めてきたのでこれだけで達成感があった)
〈けっして姿を見せないサテュロスたち〉は呼び名の通り姿を見せることなく人里離れた丘の向こうに住んでいて、スキアポデスのガヴァガイくん曰く「誰よりも悪く考える」とのこと。少なくともキリスト教についてスキアポデスとは相容れない考えを持っているようです。
興味を持ったバウドリーノがサテュロスの丘を訪れますと、そこにいたのは一角獣を連れた女神のような美少女。ヒュパティアと名乗る彼女はゴリゴリのグノーシス主義者で、バウドリーノと神学論争をしてくれます。みんな論争好きね。
でなんやかんやで数日過ごしたのちセックスすることになるのですが、服をまくってみてびっくり、ヒュパティアの下半身はヤギではありませんか。そう、ヒュパティアこそが〈決して姿を見せないサテュロスたち〉の女性だったのです。
ヒュパティア(個人)が言ったこととバウドリーノの推測をまとめると、
「ヒュパティア(種族名)はヒュパティア(ローマ期エジプトの女性学者)の意思を継ぐ女たちであり、ヒュパティア(学者)の弟子であった女性たちの末裔である。 迫害から逃れてプンダペッツィムの僻地の丘にたどり着いたヒュパティア(種族名)たちはヒュパティア(学者)の教えをさらに高めるべく修行に励み、またサテュロスたちと番って子孫を増やしてきた。生まれた赤子のうち男の子はサテュロスとしてサテュロスが育て、女の子はヒュパティアとしてヒュパティアが育ててきた。」
ということのようです。 ヒュパティアは始祖と種族名が同じで個人名が無いので大変ややこしい。
サテュロスたちがいつからヒュパティアたちとともにいるのかは定かではありませんでした。
プンダペッツィムの人種のるつぼっぷりを見ると、元からプンダペッツィムにいたサテュロスたちがヒュパティアたちを迎え入れたということも充分に考えられます。しかしディオニュソスの行進のようにドンジャラホイと放浪していたヒュパティアとサテュロスもまた容易に想像がつきますし、どっちなんでしょうね。
残念なのは物語に登場するのはヒュパティアだけで、男の〈けっして姿を見せないサテュロスたち〉は本当に最後まで姿を見せなかったことです。
出てきてほしかったなー!
バウドリーノとヒュパティアが結ばれたのちの物語は、プンダペッツィムのひとびとに敵対する種族の白フン族が攻めてきて上を下への大騒ぎ、ヒュパティアたちは〈けっして姿を見せないサテュロスたち〉の手引きで逃亡には成功したもののバウドリーノとははなればなれに……という展開となります。ここでプンダペッツィムの章は終わり、果たしてバウドリーノはヒュパティアと再会できるのか?司祭ヨハネの王国は見つかるのか?というかこの冒険譚はいかにしてニケタスとの出会いにつながるのか?という具合になっていきます。終盤にはサテュロスは出てきませんが、怒涛の展開でとてもおもしろかったです。
「ギリシャ神話の精霊」でも「悪魔に堕とされた旧い神」でもなく、「中世ヨーロッパにおける想像上の生物」としてのサテュロスが描かれた小説というのはなかなか新鮮でした。
文学におけるサテュロスの新しい顔を知った思いです。